古代ローマ遺跡 8



古代ローマ時代の市壁が初めに作られたのは紀元前1世紀、バルセロナの前身バルキーノが作られたときですが、その市壁は3世紀にさらに補強されて、さらに中世には幅を広くしてその上に建物が建てられたりしました。市壁は18世紀までほぼそのままの姿で使われていたので、バルセロナの町の中でも随所に見ることができますが、当時の町は、すべて地面の中です。それが、1931年に王の広場の地下を掘ったとき、その一部が現れました。

写真のいくつかは、ミュージアムで発行している本の中からお借りしています。

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そのときの様子の写真です。カテドラルの横にある、王の広場の地下がこんなふうにになっていたのです。

市民戦争が始まったところなので、遺跡は再び埋められ、戦争が終わった後、本格的に発掘が再開されました。





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これはバルセロナ市歴史博物館の看板になっている写真です。
現在の王の広場と、その地下に広がるローマの町が見えます。



さて、ローマの町の地図を初めに載せましたが、もう一度。
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この地図のほうがわかりやすいでしょう。東西南北に走る二本の大通りが町を4つに分けていますが、縦の通りがDecumanusで、約800m, 横の通りが550mのKardo maximusと言われていました。




では、ミュージアムの地下にある、ローマの町にご案内しましょう。

入り口近くにある、トーガをまとった、首なしの男性像の彫刻が見えます。

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ちょっとユーモラスな石のクッション。これに寄りかかって身を横たえたらしい。

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建物の柱頭部分
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美しい男女の像がお出迎えです。
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エレベーターに乗って地下に降りるのですが、上にある階を表すはずの数字は、2007年。そして地下にもぐってゆくと、紀元前12年の表示が。
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降りたところに、ローマ市壁が立ちはだかっています。
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手前が一番初めに作られた壁、その向こうが3世紀にもう一つ向こう側に壁を作り、真ん中を埋めたもの。

真ん中を埋めるために使った建築材は、その辺りにあった以前の建物のものなどを手当たりしだい使ったらしい、と言うのも、ミュージアムのこの一角ではっきり見ることができるのです。
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ここに建てられていた建物に使われたと思われる石が、ほかの建物の建築材として使われていたのが見つかり、ここに戻された石が並んでいます。

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そして、目の前に開けた光景はこんな具合です。
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つづく


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by gyuopera | 2007-11-13 05:05 | 古代ローマ遺跡 romanos | Comments(6)


次にAvinyon通りに入ります。このあたりは、西側の市壁があったところです。Avinyon通りは、昔は娼婦街で、ピカソが描いた「アヴィニョンの女たち」の題材になっていますね。

目指すのは19番地。そこは、ロックががんがんかかっているブティック。

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この壁に注目!
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これは、四角い塔の一部なんです。外から良く見ると、そこに塔が立っているのがわかります。
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塔の上部は修復中で緑のコモがかかっていて、そして一回部分は、あろうことか、「店舗貸し出し」の札がかかっています。これでは誰もこれがローマ時代の市壁の塔とは気づきませんね。
19番地のお店は、その塔の外側部分を壁として使っているわけです。
お店の人に聞くと、奥に連れて行ってくれました。

綺麗なシャンデリアが下がっています。
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「ほら、ここにローマ時代の壁の一部があるのよ」

と言われてみたのはこれ。
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残念、これしか見えないんですね。でも、本物が残っているだけでも感謝!

そこの女性が、向かいのお店にもあるのよ、と言って、Cirkusというお店の店員さんに話してくれました。そこもユニークな衣料品のお店です。
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このお店、奥にレストランがあって、Susi bar, 寿司バーなんですって。
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その奥に、また部屋があって、そこが
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ローマ時代の壁だって言うんですけどね。確かにかなり古そうですね。


すぐ近くのお店のショーウィンドーにも、ほら、石壁が!
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これはローマのものじゃないと思うんですが、わからないですね。ひょっとするかもしれないし。


次にBanys Nous通りに入ります。そこに、パーキンス病のセンターがあるのですが、その建物の中の壁の一部が、ローマの市壁になっているのです。

係の女性は快く室内に導いて見せてくれましたが、内部は患者さんたちのうめき声や叫び声で満ちていました。ちょっと悪かったかな・・・と思ったのですが、とてもステキな発見がありました。周りの写真は撮れないので、壁だけです。

壁は2部屋にまたがっています。 これは室内です。
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この壁を良く見てください。
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これは人の足の彫刻ですね。古代ローマ市壁にこんなものがはめ込まれているんです。

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これはお棺でしょうか? 足が組まれているから、レリーフなのか、それとも、ローマ人が来る前そのあたりに建っていた建物の一部? いろいろなイメージが膨らみます。

ちょっとショックを受けてそこを出ました。



さて、もう少しで出発点のカテドラルが近づいてきました。Palla通りのほぼカテドラルに近いところに、鉄格子のはまったパティオがあります。その奥の壁が、市壁の一部です。 今日行ってみたら、学校の子供たちが遊んでいました。
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さて、これでローマの市壁を一周しました。ずいぶんあちこちに隠れているでしょう?

このローマ遺跡シリーズ、今度は地下にもぐって、ローマ時代の町をご案内しますね。


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by gyuopera | 2007-11-03 15:20 | 古代ローマ遺跡 romanos | Comments(8)

セビージャから来たお友達と、ゴシック街で待ち合わせしました。

少し早めに着いたので、そのあたりを散策します。

細い道を入ったら、そこに小さな広場があり、そこはこの地区のカルチャーセンター、Pati Llimona(レモンのパティオ)。
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ここに来たことはあったのですが、中には入ったことがありませんでした。ガラス窓の向こうには、絵がいくつも飾ってあり、展覧会をやっているように見えたので、入ってみることに。

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係りの人に聞くと、展覧会は明日から、と言うことでした。そういえば、このあたり、沢山遺跡が発掘されているので、

「え~と、ローマの遺跡が見られますか?」

と聞いてみたら、



「はい、こちらにどうぞ」

と案内してくれます。まだ鍵がかかっているドアを開けてくれました。

古い建物ですが、とてもステキに修復されています。
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この壁からして、ローマ時代の跡みたいです。
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面白いですね
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中はずいぶん広いみたい
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わぁ・・・
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説明が書いてないので、はっきり、何の跡かはわかりませんが
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このあたりは、古代ローマ時代の市壁のあったところ。それも、南側の門の辺りです。
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アーチがあります。
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古代ローマ時代の市壁は、壁と壁の間に四角い塔が建てられていました。そして、東西南北に4つの門があったのですが、もんのところは丸い塔でした。この、地面に見えるアーチ型のものは、その門の基盤部分ではないかと思われます。

実は、窓から見える外側は、Regomir通りで、いつも通っていたのですが、中に入ったのは初めて。外からも一部を見ることができるのですが、これがまさかカルチャーセンターの中とは思いませんでした。
思いがけずこんなところが見えて、とても興味深かったです。

夏休み前に、古代ローマ市壁のツアーに参加しました。沢山の写真があって、まだまとめてないのですが、いずれアップいたしますね。

Centro Civic Pati Llimona HP
http://w3.bcn.es/ab/asia/equipament/controller/0,2317,1653_71890_1,00.html?accio=fitxa_eq&idEquip=92086035951&llocInnovador=false

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by gyuopera | 2007-10-25 05:55 | 古代ローマ遺跡 romanos | Comments(10)

アウグスト寺院の柱


バルセロナのカテドラルの真後ろにある細いParadisという通りがあります。
この細い道は、普段あまり人通りがないのでちょっと不気味ですが、その道が直角に折れ曲がる左手に、アーチの入り口があります。
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パティオがあり、上に続く階段が見えますが、興味のあるのはその左手。

4段の階段を下りると
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4本の美しい柱があります。
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紀元一世紀、古代ローマ時代、バルセロナはバルキーノと呼ばれた、城壁に囲まれた人口2000人のローマのコロニーでした。
その真ん中に、時の皇帝アウグストを祭った神殿がありました。
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この4本の柱は、その神殿の後ろ側左側の隅の4本の柱なのです。

こちらが復元図
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奇妙なことに、この柱は周りを個人の建物に囲まれていて、天井まで付いています。

以前はここに入るのは、特別ガイドが付いてきて、入り口の鍵を開けてくれるときだけでした。今は自由に入って見ることができます。

初めて見たとき、息が止まりそうなくらい感動しました。
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こんな町の中心の建物の中に、2000年前の神殿の柱が、今もなお美しい姿を保っていることが信じられませんでした。


こちらは夜見たとき
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柱は、立っているところより少し高いところにあります。
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つまりこれは神殿の基盤部分で
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下の、これを見ながら立っているところが、古代ローマ時代の本当の地面の位置なのです。

でも、この状態でずっとあったわけではありません。この柱は、信じられないことですが、家の中にあったのです。

そのときの絵が、今でも残されています。これは1837年の状態を描いたもの。
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1879年にはこんな風に
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柱頭の部分は建物の3階部分の部屋にすっぽり入っていたのです。素晴らしい部屋だったことでしょうね。

20世紀の初め、この建物の持ち主 Ramon Montaner は、この建物の改装を、甥のLluis Domenech i Montanerに依頼し、この柱は自分のCanet de Marにある、自分の家に移そうと計画しました。でも、歴史的な重要性を説いていさめたのは Josep Puig i Cadafalchでした。


でも、当時は柱が3本しかありませんでした。
 
もう一本は、王の広場にあったのです。 これは、1943年の写真。
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王の広場にあった柱は、1954年になってやっと元の位置に戻されました。
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そんな経歴があって、今私たちはこの美しい柱をここに見ることができるのです。

神殿のそのほかの部分はどこに行ってしまったのでしょう?
それは、その後の西ゴート族、キリスト教徒たちがここにやってきて建物を作るとき、神殿やほかの石を、建築資材として使って、新しい建物を作ったのです。

この4本の柱がそのまま残ったのは、奇跡かもしれません。

モノクロの写真は、この柱のある壁に貼ってあったパネルを上から写真に撮ったものです。

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by gyuopera | 2007-08-25 05:43 | 古代ローマ遺跡 romanos | Comments(6)

Refugio 307 (防空壕)


バルセロナはスペイン内戦(1936-1939)で、最後まで革命軍に抵抗していた町ですが、そのときの爆撃に備えて作られた防空壕を見に行きました。モンジュイックの山裾のPoble sec地区にある、「refugio 307」です。

フランコ軍によって,バルセロナに初めに落とされた爆弾は、1938年3月16日22時08分。
爆撃を初めて見た市民たちは、ものめずらしげに見物していたそうですが、やがて無差別の爆撃が激しくなり建物が次々崩壊するに至って、急いで防空壕が掘られ始めました。
多くの市民は、子供たちを列車に乗せてフランスに疎開させましたが、ここにとどまっていた市民たちは、みんな空襲サイレンとともに、防空壕に避難していたのです。

バルセロナ市内では全部で1384個の防空壕があったそうで、この防空壕はその307番。
この地域は工場も多く、人口密度が高かったので、爆撃による大量殺人が可能な地区として、かなり爆撃がひどかったのです。

当時、地下鉄は1号線と3号線の一部しかありませんでした。地下鉄の走っていた空間は、当然防空壕としても使われましたが、新しく掘られた防空壕あとが、後に地下鉄に利用されたところが沢山あります。

このrefugio 307は、1995年に防空壕入り口付近に建っていたガラス工場が取り壊された際、再び日の目を浴び、戦争が二度と起こらないようにと祈りをこめて、修復されたものです。ここが見学できるようになったのは今年になってからのことで、今、バルセロナ市内で見学できる防空壕はおそらくここだけ。

Poble Sec地区は、工場が立ち並び、労働者の多く住む地区だったので、今でもその雰囲気が感じられます。
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そしてここが防空壕の入り口
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入ると、ギャラリーがあって、内戦当時のバルセロナの写真のパネルが貼ってあります。
防空壕の内部に入るときは、全員ヘルメットを着用します。
サイレンが鳴り、みんないそいそと内部に踏み込みました。

内部はひんやりとして寒い。
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入り口部分は狭く、壁は灰色です。ここはガラス工場で使われていたのだそうです。
その先に進むと、天井や壁は、閉塞感を和らげるため白く塗られています。
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ここの防空壕は、長さ400メートル、高さが2m、幅1.6m、2000人が収容できました。
爆撃の音、子供が泣く声などが聞こえてきて、本当に避難体験しているようでした。
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動物は入れない規則でした。動物はこういう狭いところに入ると、ナーバスになってしまうからです。それで犬を飼っていた人は、犬のために家に残っていたそうです。
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沢山の横穴があります。壁にうがった小さな穴は、持ち物を置いておくための棚
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みんな熱心にガイドさんの説明を聞いています。
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照明は新しく設置されたものですが、もともと電気の照明が取り付けられていました。
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防空壕内では、沢山の人が入れるために横になってはいけない規則でした。病人は、特別の「病室」に入れられました。ガイドさんが建っているところがそうです。床に穴が開いて、空気が入るようになっています。ここに3つベッドが入っていたそうです。
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トンネルはまだ続きます。時々横道があります。かなり広い。
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やがて壁が岩になっているところに来ました。モンジュイックの岩盤です。この石で、カテドラルやサンタ・マリア・デル・マール教会、ピノ教会が建てられたのです。
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急に狭くなっている部分に来ました。まだ掘りかけだったのです。
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壁は、掘ったあとが生々しい
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戦争中も、学校はやっていました。子供たちは学校から帰ると、防空壕で掘った土を運び出す手伝いをしました。
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出口付近に、暖炉のようなものがありました。火を使ってはいけない防空壕内にどうして?
これは戦後、アンダルシアから来た家族がここを家として使ったとき作ったのだそうです。彼らはここで、シャンピニオンの栽培を始め、それは大成功し、とうとうシャンピニオン王となったのだそうです・・・

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もうすぐ出口です。
ここは、当時は3つの出入り口と、トンネルもさらにいくつもありましたが、バルセロナがフランコ軍に占領されたとき、反革命軍の首謀者を探すためすべての防空壕を調べて、かなりの部分を埋め立てたそうです。

外は雨でした。
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市民は内戦の忌まわしい思い出を忘れようとしましたが、こうして歴史の一幕として残しておくのはごく最近になってからのことです。戦争を知らない人たちが、戦争の恐ろしさを知るためにはぜひ残していってほしいものです。
今は本当に美しい町になったバルセロナですが、無差別爆撃で多くの建物が破壊され、沢山の方が亡くなられました。市民は町の復興に全力を挙げ、ここまでに至っています。
カタルニァ歴史博物館に行くと、詳しい展示物が見られます。

Refugi 307 c/Nou de la Rambla 169
見学日: 毎週土・日 11時~14時
          予約:  93 256 2122
入場料 3ユーロ
          HP

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by gyuopera | 2007-08-19 03:58 | バルセロナ案内 Barcelona | Comments(12)

ガイド付きで夜のバルセロナツアーに2度参加したわけですが、今回は昼間、バルセロナの旧ユダヤ人街を訪問しました。

ユダヤ人がキリストを殺した、ということで、ユダヤ新は永遠の罪をきせられ、紀元3世紀ころから迫害されて来ました。 彼らはバルセロナがl古代ローマ時代、まだバルシーノと呼ばれるころから住んでいたらしいのですが、実際はっきりとその存在が明らかになるのは10世紀、モンジュイックにある共同墓地の中に、旧ユダヤ人墓地というのが見つかってからです。

14世紀のバルセロナの人口は3万人で、ユダヤ人はなんと4000人もいたのですが、ユダヤコミュニティは当時2つあって、シナゴグは4つもあったのです。歩いてみると、さして広くは無い地区なのですが、昼間でも暗く狭い通りが多く、また15世紀以降はかなり建て増しや修復増築などをしているので、かなり想像力を働かさねばなりません。

現在唯一発掘された大シナゴグは、この細い通りの先にあります。
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反対側から見ると、道の終わりに飛び出た建物がありますが、その半地下にあるのです。
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通りは両側の家が覆いかぶさるように建っていて
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その辺の家の窓はしっかり閉じられひっそりとしています。
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ここがユダヤ人街であったのは14世紀まで
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なぜなら、1391年の襲撃で、ユダヤのコミュニティの人たちは全員殺されてしまったから。
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これはCallで一番古い家。「魂の家」とも、「魔女の家」とも呼ばれています。
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でも、そこに住んでいたのはある賢者。
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あるとき、キリスト教の若者が、ユダヤの女性に恋をした
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でも、異教徒とは結婚できない
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思い余って心中することにし、男はその賢者に相談した
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賢者はバラの香りのする毒を若者に与えた。その毒は、それをかいでからしばらくたってから死ぬという毒
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若者はその毒をバラの花にふりかけ、女性にプレゼント。女性は喜んで花束を持って帰った・・・
そして、賢者が家に帰ると、そこに死んでいる娘を発見した・・・・

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ここはこの間の夜のゴシック探索でも来たところ。旧ユダヤ地区が手狭になったので、13世紀半ばに、ここにあった境の壁を取り壊して広げたところ。だから同じ通りなのに、ここまでと、ここから先は名前が違う。

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この向こうに、ミクベが発見された。
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ここには別のシナゴグがあったと推定されているところ


突き当たりはBanys Nous通り
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そこにはかつて大きなお風呂屋さんがあったところ
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そのお風呂屋さんは取り壊され、今残るのは美しい壁の18世紀の建物
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このアーチをくぐった先には
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Ferran通りに面するサン・ジャウマ教会
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実はここ、以前はトリニダ修道院だったところを売り渡したのだけれど
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その修道院は、キリスト教に改宗したユダヤ人が、ここにあったシナゴグを壊して建てたもの。

サン・ジャウマ教会を建てたおかげで、この道は行き止まりになってしまった
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この教会の向こう側にも、名前が違う通りがやはり教会の壁で行き止まりになっています。

このすごい跡は、昔、ここにアーチがあって、ユダヤ人が緊急の時、道の向かいにあった城に逃げ込むための橋でした。
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14世紀、バルセロナの人口の半分が死んだペストの大流行は、ミクベで体を清める習慣のあったユダヤ人の死亡が少なかったことから、市民はユダヤ人が井戸に毒を入れたと嫌疑をかけたのです。それで1391年、市民はユダヤ人街を襲った。ユダヤ人はこの橋を渡って城に逃げ込んだ、その翌日、襲った筆頭者3人が処刑される。そのさらに翌日、市民は城に押し入り、中にこもっていた人々を全員殺害した・・・

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カトリック両王が、ユダヤ人を追放した1492年より100年も前に、バルセロナのユダヤ人街は消滅したのです。

ユダヤ人がいなくなったので、彼らの住居を売りに出したのですが、真っ先に一番立派で大きな建物を買ったのはバルセロナ州政府でした。
それがいま、州政府の建物の一部になっているのです。
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その入り口の一つに残る人の姿
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昔のユダヤ人の衣装を着けています。
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この州政府の建物の中のオレンジのパティオの下には、ちゃんとユダヤ人の住居跡があったのですが、政府は遺跡を掘って写真に収めると、また埋めてしまったのです。

カテドラルの横は、昔墓地でした。バルセロナの人口が増えて、墓地は城壁の外に移すことになり、そこに王宮が建てられたのですが、
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そこにあった墓石まで利用したので、今でもはっきり名前が刻まれた石が見えます。
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そのかつての王宮は、今修復がほぼ完成するところ
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一般公開も間近いでしょう。

ユダヤ人街とゴシック街の話は、とてもここで書きつくせるものではありません。興味のある方がいらしたら、ご案内しますよ。

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by gyuopera | 2006-11-08 03:55 | バルセロナ案内 Barcelona | Comments(16)

私と一緒にバルセロナを散歩しましょう Vamos a pasear conmigo en Barcelona!


by gyuopera