2010年 05月 12日
古代ローマ時代の墓の並ぶ道2 Via sepulcal romana2 |
さあ、どんなお墓があるか見てみましょうか。
お墓にもいろいろな形があって、これはCupa,クパと呼ばれるもの
下にかなり掘り下げて、深い石の棺を埋め込み、上は赤く塗った漆喰で、盛り上げておおってありました。
上に穴があいているのは、そこから死者に食物を入れたのだそうです。
「Pedanius Dionysius, 彼の妻Fabia Ferriolaによって墓が造られた」 紀元2世紀終わり
この時代は、結婚しても、お互い姓は前のままだったのでしょうか。スペインは今もそうですが。
こちらは
「Quintus Iulius Primigenius Repostus, 彼の弟Puintus Iulius Repostusによって墓が造られた
当時からたくさん姓を持っている人がいたんですね。
こんな形のお墓は Tumul conic(円錐墳墓)と呼ばれます
ほかにもいろいろありますが、石を刻んだものもあります
"Faustianus, de Tertullina i Tertiola" 紀元2世紀
"Fabia Agathonice" 紀元二世紀終わり~三世紀
こんな縦長のもあります。Estelaと呼ばれています。
"Cornelia Cosme" 紀元2世紀終わり~三世紀
これはAraと呼ばれるもの
”Terentia Fuscula、彼女の娘Flavia Chrysisによって造られた” 紀元二世紀終わり
これは、お墓の並ぶ道がずっと続いていたことを想像できるように新しく作られたもののようですね
こういう四角のベースだけ残っているものもあります
当時植えてあったであろうブドウの木が植えてありました。最近整備したとき植えたみたい
"Numisia Eutychia, 彼女の娘Numisia Tycheによって造られた” 一世紀終わりから二世紀
まだ赤い色が部分的に残っていますね
ごちゃごちゃくっついてるのも
これは黄色かったのかな?
"Flavia Theodote, 彼女の相続人たちによって造られた” 紀元二世紀
こちらは
ほとんど読めないですね
でも説明には"Antonius Theodorus, 18歳、ここに眠る”と書いてありました。
こちらは父と娘の墓
"Eroticus i Erotrice, 父と娘、彼の娘、彼女の妹Trocina Eroticusによって造られた”
ちょっと変な名前ですけどね。娘は名前が姓になってますね。
似たようなお墓がまだあります
これはかなりはっきりしていますね。
"Buturas, 彼の息子 Neo によって造られた” 紀元2世紀終わり~三世紀。信じられます?1900年も前なんですよ。
これは欠けちゃったのかな
文字ははっきりしているけど
”Fabia Tertulia" 紀元二世紀終わり
こんな丸いのもありました
こうして道沿いに並んでいたのですね。
上のほうの家が見えなければ、ちょっとローマ時代に行った気分
その道は、昔のバルセロナ、バルキーノの町に続いていました。反対側は、ローマに続いていたんですね。
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お墓にもいろいろな形があって、これはCupa,クパと呼ばれるもの
下にかなり掘り下げて、深い石の棺を埋め込み、上は赤く塗った漆喰で、盛り上げておおってありました。
上に穴があいているのは、そこから死者に食物を入れたのだそうです。
「Pedanius Dionysius, 彼の妻Fabia Ferriolaによって墓が造られた」 紀元2世紀終わり
この時代は、結婚しても、お互い姓は前のままだったのでしょうか。スペインは今もそうですが。
こちらは
「Quintus Iulius Primigenius Repostus, 彼の弟Puintus Iulius Repostusによって墓が造られた
当時からたくさん姓を持っている人がいたんですね。
こんな形のお墓は Tumul conic(円錐墳墓)と呼ばれます
ほかにもいろいろありますが、石を刻んだものもあります
"Faustianus, de Tertullina i Tertiola" 紀元2世紀
"Fabia Agathonice" 紀元二世紀終わり~三世紀
こんな縦長のもあります。Estelaと呼ばれています。
"Cornelia Cosme" 紀元2世紀終わり~三世紀
これはAraと呼ばれるもの
”Terentia Fuscula、彼女の娘Flavia Chrysisによって造られた” 紀元二世紀終わり
これは、お墓の並ぶ道がずっと続いていたことを想像できるように新しく作られたもののようですね
こういう四角のベースだけ残っているものもあります
当時植えてあったであろうブドウの木が植えてありました。最近整備したとき植えたみたい
"Numisia Eutychia, 彼女の娘Numisia Tycheによって造られた” 一世紀終わりから二世紀
まだ赤い色が部分的に残っていますね
ごちゃごちゃくっついてるのも
これは黄色かったのかな?
"Flavia Theodote, 彼女の相続人たちによって造られた” 紀元二世紀
こちらは
ほとんど読めないですね
でも説明には"Antonius Theodorus, 18歳、ここに眠る”と書いてありました。
こちらは父と娘の墓
"Eroticus i Erotrice, 父と娘、彼の娘、彼女の妹Trocina Eroticusによって造られた”
ちょっと変な名前ですけどね。娘は名前が姓になってますね。
似たようなお墓がまだあります
これはかなりはっきりしていますね。
"Buturas, 彼の息子 Neo によって造られた” 紀元2世紀終わり~三世紀。信じられます?1900年も前なんですよ。
これは欠けちゃったのかな
文字ははっきりしているけど
”Fabia Tertulia" 紀元二世紀終わり
こんな丸いのもありました
こうして道沿いに並んでいたのですね。
上のほうの家が見えなければ、ちょっとローマ時代に行った気分
その道は、昔のバルセロナ、バルキーノの町に続いていました。反対側は、ローマに続いていたんですね。
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by gyuopera
| 2010-05-12 03:53
| 古代ローマ遺跡 romanos
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